叱る、叱られる

先日、俺がもっとも信頼を置いているカメラマンの男と、子供の叱り方について、話をする機会があった。

彼は二児の父であるが、子供を叱るときに手をあげることもあれば、気分によって理不尽に叱ることもあるという。

「理不尽に怒る人もいるんだ」ということを子供に学ばせ、子供が他者と接する時に、気をつけて相手を観察したり、想像したりできる感覚を身につけさせるためである。

ちなみに彼はとてつもない人間力をもっているので、日頃、子供に愛情をたっぷり注いでいることは、想像にかたくない。それを前提として、俺は彼の「叱る」姿勢に、非常に感銘を受けたのである。

 

俺も、今になってしみじみありがたいと思うのは、幼少期から今にいたるまで、実に多くの人が、俺を叱ってくれたことである。

以前にも少し書いたが、俺のお袋や親父代わりだった叔父は、躾に厳しい人だった。とくに、嘘をつくこと、偽物の生き方に対しては容赦がなかった。

俺は一度だけ、小学校三年生のときに、お袋に嘘をついたことがある。そのときのお袋の激しい怒りようは、忘れることができない。「嘘つきは泥棒の始まりや!」とめちゃくちゃにひっぱたかれ、家から放り出された。それまでお袋から手を上げられたことのなかった俺は、それだけでショックだった。

お袋は叔父にまで報告したため、今度は叔父がやってきて、俺は、サッカーボールのように蹴られまくったのである。「もう二度と嘘はつくまい」と心に誓ったのは、言うまでもない。

 

それに俺が中学、高校生だった頃には、ちょっとしたことで説教し、声を荒げる教師なんてゴロゴロいたし、怒りにまかせて拳を振りあげる教師もいた。俺は、なんだかんだとよく叱られる生徒だった。

警備業時代も、「精神障害者移送サービス」を始めてからも、実に多くの人が、俺を叱ってくれた。「それではいけないよ」と、厳しく教え諭してくれる人もいれば、中には理不尽な怒りをぶつけてくる人もいた。「押川さん、大学中退だもんね。バカなんだから、こうしなきゃいけないよ」と、面と向かってはっきり言ってくれる人もいた。

 

俺はそういう叱責を、ありがたいなあと思って聞いていた。なぜなら人間は、叱られることによって成長すると思っているからだ。叱られたことを努力によって改善し、成功したときには、誰よりも自分が、その喜びを味わうことができる。

それに叱られることに耐えられるか否かは、その人間が成長できるかできないかのバロメーターでもある、と思っている。

俺が携わっている「本気塾」でも、どんなに叱られても歯をくいしばってまた前向きに頑張れる人は、必ず自立できるし、その後も継続して人生を積み重ねている。叱られることに耐性がない人間ほど、すぐに逃げ出すし、再犯を犯してもいる。

いつ頃からか、この国では「褒めて育てる」ことが主流になった。だが俺は、それは間違っている、と確信している。

親や周りの指導者(大人)がすべきことは、子供を思い切り「叱る」ことであり、「叱られる」ことを「ありがたい」と受け止め、努力に変えられる人間に育てることである

なんでもナアナアにして、他人を思いきり叱ることができない人間がたまにいるが、それは、自らが、そういった厳しい人生から逃げてきたことの証ではないだろうか。

もちろん、某高校の体罰自殺事件のように、理不尽な叱責や体罰を執拗に繰り返すことは、論外であることを、お断りしておく。