呪縛

「褒められたい」、「いいひとと思われたい」、
「最上級クラスの人間として認められたい」…
度が過ぎるほど、そう思いつめて生きているひとがいる。

 

本人は一生懸命「いいひと」を演じているつもりだろうが、
結果的に八方美人になっちゃって信用もおけないし、
まったく自由ではなく、楽しくもなさそうだ。

 

こういうひとは、幼少期によほど親から「ああしなさい、こうしなさい」、
「あれはダメ、これはダメ」と “縛り”を入れられて育ったのではないだろうか。
その名残で、今や自分で自分に“縛り”を入れて生きている。

 

そんな“縛り”を入れるのは、どちらかといえば母親に多い。
相手が息子の場合、過保護な母親に嫌気が差してとっとと家を出て行くか、
逆に共依存の関係となってしまうか、分かりやすい形で現れる。

 

一方で、母と娘の関係となると、表面上は何事もないように見えて、
実はいつまでも娘の人生を抑圧している…そんなケースが多いように思う。
「母親が亡くなって、初めて自由になれた」「親が死んでも涙も出なかった」
という女のひとは、俺の知り合いでもけっこういる。
いやというほど実態を知っている俺は、その言葉を冷たいとは思わない。

 

そういう意味では、俺は、まったく自由に育ててもらった。
小学校までは真面目なボクちゃんだった俺だが、
中学の途中から横道にそれまくり、
ここには書けない悪事もたくさんした。
お袋にも、かなり面倒をかけたはずである。

 

しかしお袋は、俺が何をしでかしても、いつも笑ってこう言うだけだった。
「しょうがないわ。わたしみたいなしょーもないのが産んだ子やけのう」

 

一事が万事、こんな感じで、
俺が何をしようが、どんな学校に行こうが、どんな仕事をしようが、
いっさい口も出さなかった。

 

「嘘をつくな」「本質をみろ」ということは厳しくたたき込まれたけど、
それ以外で、「ああしなさい、こうしなさい」「あれはダメ、これはダメ」
なんて言われたことは、まったく、一度も、ないのである。

 

十年ほど前の話になる。
真夜中に突然、お袋から電話があった。
「お前、ひとでも殺したんか?」

 

ひとなど殺した覚えはなかったので、何ごとかと尋ねたら、
週刊誌の記者から、お袋に電話があったのだという。

 

当時、俺は初の著書(子供部屋に入れない親たち)を出した直後で、
週刊文春が、移送サービスに関する批判記事を書いていた。
その取材が、実家にまで及んでいたのだ。

 

記者はこう訪ねたそうである。
「息子さんが今、やっていることをご存じですか」
お袋はこう答えたそうである。
「はあ。ひとでも殺しましたか」

 

お袋の返答に、記者はかえってしどろもどろになって、
「いやあ、そういうわけじゃ…」とか何とか言いながら電話を切ったそうだ。
お袋は、俺が週刊誌に叩かれている件については何も聞かず、
「よう実家の番号まで調べたもんやね」とだけ言った。

 

お袋は俺がいかにデタラメな人間かを、早いうちから見抜いていたのだろう。
いいほうわるいほう、どっちに転んでも仕方ないと、
腹をくくって育てていたに違いない。
どんなときも肝の据わった様子のお袋に、反抗したことは数限りない。
しかしその一方で、「お袋にはかなわねーや」と思っていたのも事実である。

 

おかげさまで今、俺は「ひとからよく見られたい」などという
つまらん欲求とは、無縁の状態で生きている。
子供のうちに親からめいっぱい、
「あんたはそれでいいんよ」と言ってもらったおかげだと思う。

 

それだけでひとは、自分に正直に生きていけるのだ。