存在を生きる
昨日の記事を読んで、
「この件って、今の世の中を象徴していますよね」と
俺に言ってくれたひとがいたが、本当にそうだな。
金になるならなんでもいい。
そして「おかしいな」と思いながらも、
その悪巧みにのっかるひとたちがいる。
受け取る側も同じだな。
耳障りのいい言葉やストーリーを聞かされたり、
弱いふり、優しいふりをされたりしたとたんに、
真実から目を背け、簡単に騙されてあげる。
実は、企業に勤続ウン十年のサラリーマンにも、
この偽ベートーベンみたいな奴がいっぱいいる。
表向きは真面目そうで、優しそうで、
毎日ちゃんと会社にも来ているけど、
裏ではいくつも別の顔を使い分け、
コチョコチョ悪事をはたらいている奴。
「時代を狂わす40代」で書いたような、
脳みそを使わない奴らも、
俺からすると、同じくらい罪深い。
逆に言えば、それなりの大学を出て大手企業に就職できたら、
あとは「犯罪でも不正でも、バレなきゃいーや」という気持ちさえ持てれば、
メシを食うには困らない。
そういう社会の仕組みができあがってしまっている。
だけど俺は思うよ。
それって本当に「生きている」「存在している」と言えるのかな。
俺からすると、そいつらの存在は、
おならの匂いみたいなもんだ。
その瞬間はキョーレツに臭いけど、すぐに消えてなくなる。
いつどこでどんなおならをしたかなんて、記憶にも残らないだろ?
先日、俺が尊敬してやまない恩人の一周忌に行ったことは、ブログにも書いた。
突然の死だったにもかかわらず、その○○さんは、
自分と一緒に仕事をしていたひとたちが、この先困ることがないように、
すべてをきちんと手配しておいてくれたそうだ。
金だけじゃなく、ひととのつながりも遺してくれた。
それは見事としか言いようのないものだったという。
○○さんの生き方に人徳があったからこそ、できたことだ。
○○さんと一緒に働いていたひとたちは、口々に言った。
「○○さんが亡くなっても、未だに教えられることがある」
「○○さんが亡くなったことで、改めてあのひと凄さが分かった」
「ほんとうに、やさしいひとだった!」
俺は、○○さんは、死んでもなお生きているのだと思った。
もちろん、俺のこころにもだ。
「生きる」「存在する」というのは、こういうことだ。