自由という不自由

「自宅で父刺殺の疑い 22歳長男を逮捕 愛知・美浜」 2月24日朝日新聞デジタル

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140224-00000003-asahi-soci

 

尊属殺人やストーカー事件など、

家族間や夫婦間、男女間といった、

基本的に「民事不介入」と言われるところでの犯罪が、

立て続けに起こっている。

 

俺のもとに舞い込む相談も、最近はそういうのばかりだ。

「殺す」「殺される」という言葉までサラッと出てくるから、

物騒なことこの上ない。

 

このような事件は、今後も増える一方だろう。

 

でもこの現実は、ある意味、当たり前でもある。

社会の仕組みや人間の生き方が、

そうなるように進んできたからだ。

 

これまで人間は長い年月をかけて、

「便利」で「自由」で「楽」な生活を追い求めてきた。

 

世間で売られているモノを見れば、一目瞭然だろう。

使ったら不便になるモノ、不自由になるモノ、辛くなるモノ……

そんなものでは売れないのだから。

 

そしてインターネットの普及が、

その状況に、拍車をかけた。

 

しかし、「便利」で「自由」で「楽」な生活には、

汗水たらして身体で感じる苦労もなければ、

他人との摩擦、ぶつかり合いもない。

 

この結果、「俺は俺」「私は私」というような、

「究極の個人」が生まれた、と俺は思うのである。

 

家族や夫婦、恋人といった最小単位の関係においても、

「究極の個人」が、それぞれに「自由」や「楽」を主張して生きている。

そこには、遵法精神もなければ、道徳・倫理観もない。

 

これは、トラブルを起こしている張本人に限ったことではない。

俺からすると、たとえばその親自身にも、

「究極の個人」で生きているところがあるのである。

 

だからトラブルが起こり、事件になる。

 

とは言え、便利なモノが作られ、売られる時代は、変えようがない。

インターネットの進化も、今さら止められない。

 

だからこそ、

他人さまがやりたがらないことをやり、

他人さまが言いたがらないことを言い、

必要とあらば他人さまに嫌がられることだってやり。

そうやって、自分自身に負荷をかけて生きていくしかない。

少なくとも俺は、そう思っている。