感動、感謝、感激
そういえば、以前、この記事でも書いたが、
俺の友人で、アメリカで仕事をしている奴がいる。
彼は今、アメリカだけじゃなくメキシコなど他の国にも、
自社の工場を建てて頑張っているのだが、そんな彼が言っていた。
「今の日本人には、感動、感謝、感激がない」
たとえば彼が工場を建てているような国では、
仕事があること、働くこと自体に、
「感動、感謝、感激」がある、と言うのである。
その情熱を目の当たりにしている彼にしてみれば、
日本人と仕事をするときに、物足りなさを感じてしまう。
もちろん昔から、日本人は感情表現が少ないと言われるし、
その謙虚さが美点であるとも言われる。
国民性や生活水準の差というものも、少なからずあるだろう。
しかし、個々の人間について考えてみたとき、
生きるため、家族を養うために働かなければならないのは、
俺たちも同じなのである。
そんななかで、俺たち日本人のどれくらいの割合のひとが
「感動、感謝、感激」しながら、働き、日々を生きているだろうか。
俺は職業柄、こころを動かされるのは、
「人間」そのものの存在によることが多い。
今日も仕事の一環で、障害をもつひとのためのグループホームの見学に行った。
今、グループホームの運営は、とても厳しい状況におかれている。
地域に根ざして運営していくから、地域の病院の意向には逆らえない。
それを逆手に、病院にとって都合のいいように、こき使われている。
(少なくとも、俺にはそう思える)
これについては説明すると長くなるので、またの機会にするが、
グループホームの運営者や、働いている職員の方たちは、まさに
究極の現場対応を強いられているのである。
今日も、その一面を垣間見るような出来事があった。
俺は、グループホームの運営者や職員の方たちに、
頭が下がる思いだったし、こころを動かされた。
はっきり言って、今や彼らのようなひとたちのほうが、
病院関係者なんかより数百倍も、患者や家族のことを考えているし、
現場で身体を張った対応をしている。
もちろん、患者や家族のことを考えて治療をしてくれる病院も、
ないわけではない。ただし、数はめちゃくちゃ少ない。
俺は、今日改めて思った。
精神保健分野のこの実態を世に広めること。
それを自分の使命として、思いっきり、やり遂げなければならない。
現場で一生懸命やっている彼らのようなひとたちが報われ、
さらに高みを目指して頑張ろうと思えるような制度・仕組みに、
変えて行かなければならないのだ。