オオゴトをキャッチする
同じヤバい出来事に遭遇しても、
オオゴトと思うひともいれば、思わないひともいる。
何をオオゴトとみるか、取るか。
その時点で、すでに勝負は決まっているのかもしれない。
俺の場合、感覚・感性で「ヤバいな」と思った時ほど、
その問題を解決するために、全力を出す。
それ以外の時間はもう、その場をしのぐための対処法にしかならないからだ。
しかし今、このオオゴトをキャッチする感覚や感性、
つまり動物的なものを持ち合わせているひとが少なくなったように思う。
一般の方々が、「もう限界です」=オオゴトと思って俺に持ち込む案件は、
俺からみたら、オオゴトどころか、激ヤバ……
すでに手の施しようがなくなっている。
なぜ、もっと早い段階で、オオゴトであることをキャッチできなかったのかな?
と、いつも思う。
その理由は、この力を全部、自分に向けてしまっているひとが、
増えたからではないだろうか。
まずは、自分が楽しむ、自分が気持ち良くなることが一番で、
「自分を大事にしなきゃ、ひとのことも大事にできない!」
みたいな刷り込みさえ、なされている。
それは、家族からの相談にも如実に現れている。
子供がめちゃくちゃやって、第三者にまで迷惑をかけているのに
「私にも人生を楽しむ権利がありますから」
なんて言って、平気な顔をしている親がいるのだ!
俺は、この感覚や感性というアンテナは、
外に向けたときに、最も効果的に働く機能だと思っている。
みんなもっと、ひと様のために、
嫌なこと、やりたくないことを進んでやるべきじゃないのかな。
そこにこそ、価値を見出すべきじゃないのかな。
家族を持つ、子供を持つことだって、
最初から犠牲の上にあるもんだと、俺は思うぜ。
さて、プロというのは、どんなに激ヤバ、手遅れの問題でも、
それ以上のオオゴトになるのを防ぐことのできる人間を指す。
が、そこには、そのひとの専門の領域という限界もある。
俺の場合、それを超えたときは、もはや事件、警察の領域だな。
その時俺は、社会的介入者の責務として、
完璧な状態で警察につなげる。
それもプロの仕事だと、俺は思っているのだ。