成長から成熟の社会へ①

戦後の復興の時期から長らく、この国は「成長」の時代を過ごしてきたわけだが、

バブルがはじけたあたりから、もはや成長は見込めなくなった。

そこから社会は変わり、今は「成熟」の時代になった、と俺は思っている。

 

特に今、働き盛りの俺たち世代(40代)は、良くも悪くも「成熟」を享受してきた。

多くが、いい学校を目指し、資格を取り、そこそこの企業に就職した。

なんとなく仕事をしていてもメシを食っていけるだけの給料をもらい、

結婚して子供を産み、マイホームを建て、

なおかつ、海外旅行だブランド品だと、趣味や余暇を楽しんでもきた。

 

しかし一方で、この「成熟」の時代における一番の罪は何だったかと言えば、

俺たちの世代の“勉強”は、とにかく暗記に基づくものであった。

「書物で読んだ」「映像で見た」「権威ある人物から聞いた」というような、

手触りも肌感覚もない知識を、ひたすらに詰め込むことが、良しとされた。

 

その結果、「現場を知らない」まま、立派な資格や肩書きだけを身につけた人間を、

大量に生み出してしまったのである。

 

それこそが、「成長」の時代との大きな差だと、俺は考えている。

 

「成長」の時代の大人たちは、汗水たらすことを厭わず、

身体を張って、ときには命を張って働くことが、

豊かな国を作り、いい暮らしにつながると信じていた。

それはすなわち、「現場を知っていた」ということだろう。

 

現場には、理屈ではなく、本質がある。

大げさではなく、命の手触り、感触があるのだ。

その加減が分かるからこそ、悪いものには「悪い」と言い、

隣近所同士助けあい、困っているひとがいれば手を差し伸べた。

つまりは、ひととひとが、本気でぶつかることができていたのである。

 

「成熟」した、今の時代ではどうだろう。

 

現場を知らず、理屈ばかりを振りかざす人間が増え、

やっかいなことに、そういう人間ほど、

社会的にご立派な資格や肩書きを持っているのである。

 

彼らは人権だのコンプライアンスだのと、決まり事を振りかざし、

たとえば自傷他害など命の危険があるような緊迫した場面でも

「本人の意思を確認しないと~」、「同意書でも書いてもらわないと~」

などと屁理屈をこね、現場仕事にはできるだけ関わらない、というスタンスである。

 

一方で、現場に出ている人間が、少しでも間違った対応をしようものなら、

その後の人生もすべて奪うくらいの、誹謗中傷・糾弾の嵐だ。

 

結果として、今や現場の対応は、警察がすべてを請け負っていると言っても過言ではない。

 

俺の本業である精神保健分野でもそうだし、

今日たまたま、<中学生>教諭への暴行など逮捕相次ぐ 警察介入是非で議論

というニュースが出ていたが、これもまた然り、である。

 

はっきり言うが、学校でも企業でも、「現場を知っている」人間がいれば、

このような問題は、警察の手を煩わせずとも、解決できるはずなのだ。

 

もっと分かりやすく表現してみると、「成熟」の時代を迎えたことにより、

前置きばかりが長くなった、と俺は感じている。

 

前置きが長くなれば、本質は遠くなる。

本質が遠くなれば、問題解決も遠くなる。

 

そういう時代に、俺たちは生きているのである。

 

この時代をどう乗り切るか、俺なりに考えていることはあるのだが

長くなりそうなので、明日に続く!

 

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