礎となる愛情
人間力のある奴、魅力のある奴、秀でた能力のある奴、
反対に、社会適応できない奴、凶悪な事件を起こす奴……
この礎は、幼少期に親からどれだけ愛情をもらったかで決まるのではないかと、
俺は確信を持っている。
もちろんなかには、親を知らずに育ち、それでも立派なひともいるが、
そういうひとは、常人には計り知れないような苦労、きつい思いをしてきているので、数は少ない。
ここではその他大勢の一般論を、考えてみたい。
俺が思う愛情というのは、「こころ」のことであって、
金=愛情、ではない。
当たり前だろ、と皆、思うかもしれないが、
けっこう考え違いをしているのが、現代ではないかと思う。
俺のところには、20代後半~40代のひきこもり(ニート)に関する相談が多いが、
その親世代は、高度経済成長期にそれなりに稼いでいた層のせいか、
子供にこころをかけず、愛情のない育て方をしてきたのに、
「大学まで行かせてやった」「生活には不自由させていない」=「ちゃんと子育てしてきた」と主張する。
で、子供がひきこもりやらニートやらになって扱いに困ると、
俺みたいな奴のところにやってきて、「死んでくれたらいいのに」とか、
「金払うから、おたくで何とかしてくださいよ」と言うんだな。
俺は、むしろ子供に同情して、「そんな親、お前のほうからぶっちぎっちゃえよ!」 と言ってきたのだが、
子供のほうは、「親には情を感じているので……」とか言って、なかなか煮え切らない。
どこに情を感じるのさ、と尋ねると、「大学まで行かせてもらったから」と答える。
金=愛情にすっかり毒されているのだ。
しかし最近は、そういう発言をする子供のほうも、
結局は親に対して、いつまでも金を求め続けることが分かった。
そんで親に金がなくなっちゃうと、ターゲットは別にうつっていく。
たとえば兄弟を攻撃したり、異性をだまくらかしたり、
あるいは犯罪行為に加担したり。
愛情=金、なんだから当たり前だよな。
子供に、こころという愛情を与えるのは、そんなに難しいことだろうか。
子供が困ったときに親が身体張って助けてくれたとか、
悪いことしたときには、身体張って止めてくれたとか、
なんか俺が言うと、「身体張って」ばかりになっちゃうけど、
でも究極は、そういう体感できるところに、ひとはこころを感じるんじゃないかな。