弱者のために
この間、親しい記者と酒を飲んでいたときに、同席していた若い記者が、
「自分は、弱者のためにこの仕事をしているんです」と言った。
ほお~と感心した俺は、一発、厳しいことを言っておいた。
「じゃああなた、まずは、組織の上の人間と闘ってくださいよ!」
なんで俺がそんなことを言ったのかというと、
その若い記者が「弱者のため」とか言いながら、
上司の顔色を、ものすごく伺っている感じがしたからだ。
「弱者のために」とか「ひと様のために」と言うひとって、
実は、この世の中にたくさんいる。
だけどその多くは、弱者に対して「かわいそうね~」的な対応に終始し、
話を聞くだけ、同情するだけ、ちょっといじるだけで終わっている。
本気の問題解決には、なかなか至らない。
それで、「弱者のために」とか言っちゃうのって、
めちゃくちゃ傲慢じゃねーか? と俺は思う。
本当に弱いひと、困っているひとを助けようと思ったときには、
もっと大きなものと、それこそ時には自分の首をかけて、
闘わなければならないのだ。
たとえば、精神保健の分野ひとつとってみても、それは明らかだ。
これだけ医療が発達し、精神科医をはじめ、こころの専門家は山ほどいる。
保健所にけっこうな予算が下りているように、専門機関だってたくさんある。
だけど現実には、子供のこころの問題に関して、
どこへ相談に行ってもどうにもならなくて、俺に助けを求める家族がいる。
どの家族も極限まで追いつめられ、「もう、一家心中するしかない」、
「子供を殺すしかない」と、涙ながらに語る。
俺は、相談に来た家族が困っていることは理解するが、弱者だとは思わない。
一番の弱者であり、困っているひとは、やっぱりその対象者(患者)だと思うからだ。
弱い人間、気の小さい人間だから、一般社会に適応できなくて、問題行動を起こす。
問題行動を起こすことで、結局、自身が追い込まれ、さらに困った状態になっている。
だから俺は、対象者(患者)がどんなやっかいな問題行動を起こしていようと、
その人物を中心に物事を考えるってことだけは、絶対にはずさない。
精神的に不安定で、他人を傷つけかねない、事故でも起こしかねないというなら、
医療という枠の中で守ってもらうことを、一番に考える。
司法で裁かれるべき案件なら、本人の更生のためにも警察に介入してもらう。
そんときに、親が「あーでもない、こーでもない」と言ったり、
保健所や行政、医療機関が、「そんな対象者は受け入れられない」と言ったりすることもある。
俺はそのたびに、「冗談じゃねーぞ!」と、とことん喧嘩してきた。
そうやって20年近く、俺なりに頑張ってきたつもりだが、
それでも、追いつめられた患者や家族の数は、減らないどころか増えている。
だから俺は今、もっと大きなもの……
たとえば国の制度や法律と、闘っていかねばならないと考えている。
「弱者のために」という言葉は、俺にとって、=「闘い」なのだ。
でも、俺は思うんだよ。
先日の御嶽山の噴火や、広島の土砂災害もそうだし、東北大震災のときもそうだが、
自衛隊や警察、消防隊の方々は、自身の命の危険も省みず、救助に当たっているのだ。
あの姿こそが、真の意味での「弱者のため」「困っているひとのため」ではないだろうか?
俺なんか、本当にまだまだだと、頭が下がる思いだ。
だからこそ、大きな組織に属し、
なおかつ身の安全は保証されているようなサラリーマンが「弱者のために」と言うのなら、
まずは、上の人間と闘って、あなたの主張を通してくださいよ、と言いたい。
大きな組織になるほど、保身しか考えていない奴、
金の計算しかしていない奴が、経営陣としてはびこっているからな。
そういう奴らと闘い、自分の首をかけてでも、主義主張を通す。
上の人間ばかりに色目を使うのではなく、
後輩や下の人間のために、上の人間と喧嘩する。
それができて初めて、「弱者のため」という言葉に、重みと真実味が出るのだ!!