親切という言葉
「親切」というのは「親を切る」と書く。
語源を調べてみると、これは「親を切る」という意味ではなく、
「親」は「親しい人」、「切」は、刃物をじか に当てるように「身近であること」、
つまり、「身近に寄り添い、行き届くようにすること」という意味らしい。
でも俺はやっぱり、ひと様に親切にしようと思ったときには、
家族(=自分)のことばかりは、考えていられないと思う。
親を切り倒してでも突き進んでいく、いわゆる自己犠牲みたいなものは、
どうしたって必要なときがあるのではないだろうか。
何で読んだか忘れてしまったのだが、こんな殺伐とした時代でも
「ひとの役に立ちたい」と思っている若いひとの割合は、
けっこう多いという調査結果を目にした。
これは実感として、俺も分かるような気がする。
実際、俺が携わっている、道を踏み外しまくって生きてきた若い奴でも、
「ひとのために何かできることはないか」
という気持ちだけは持っている人間もいる。
もちろん、「絶対働きたくない」「親の金で生きていきたい」
と考えている奴もいるのだが……。
「ひとのために」という気持ちがまったくない人間、
あるいはその気持ちはあっても、
社会に適応できない人間が増えているのはなぜか。
それは、彼らが親から、「他人を喜ばせる」ことではなく、
「親を喜ばせる」ことばかり、教えられてきたからではないだろうか。
とくに今、おかしくなっている子供の親は、学歴だの資格だの収入だの……
あまりにも即物的なものにより親を喜ばせる生き方を、子供に強いてきた。
親を喜ばせることが、他人を喜ばせることにつながる、
そういう例がまったくないとは思わないが、
それは、愛情や思いやりといった「こころ」の話だ。
「親(自分)のことはいいから、ひと様のために生きなさい」
子供にそう言ってやれる親こそが、賢いのかもしれないなあ。