喜びと安心と

仕事が仕事として成り立つ土台には

「ひとを喜ばせる」ということがあると思う。

俺の仕事の場合、それにプラスして「ひとを安心させる」というのがある。

 

精神障害者移送サービスという仕事をはじめたときから

どうしたら、家族の問題で追いつめられているひとが、

喜んでくれるか、安心してくれるか。

俺にとって大事なことは、その一点だった。

 

ときどき、「なぜ警備会社の移送サービスで終わらずに、

ここまでやるようになったのか?」と聞かれることがあるが、

俺としては、別にビジネスの拡大を狙ったわけでもなんでもなくて、

ただ、困っているひとが、どうしたら喜ぶか、安心するか。

そこを突きつめてきた結果、今のようなスタイルになったのである。

 

本人の状況によっては、入院や施設入所という形で、

本人と家族が一線を引いているケースもある。

 

その状態で何年も経っているような場合だと、たまに家族から

「おかげさまで、他の子供たちの就職(結婚)が決まりました」

という報告がくることもある。

 

そこに、本人の存在は、ない。

かつて本人との間に起きた「殺すか、殺されるか」という恐ろしい出来事さえ、

家族の人生から、きれいに追い出されている感がある。

 

だが俺は、それでいいと思っている。

家族が今、安心しきって暮らしていることこそ、

俺への最大の信頼だと思うからだ。

 

じゃあ、本人にとってはどうなのか?

家族から引き離されて、病院や施設に入ることになり、

「良かった」「安心した」と思えるのか?

 

こればっかりは、本人の考え方や捉え方にもよるけれど、

「死ぬ」とか「殺す」という事態を避けられている点において

人間としての尊厳は、守ることができる。

 

また、家族にも少なからず問題はあるわけで、

その家族と距離を置き、専門家のケアを受けることで、

身体やこころは健康になっていく。

 

あとは本人が、どう現実を前向きに捉えていくかにかかっているし、

「家族から離れて良かったな」と思えたときが、

おそらく、自立や更生への第一歩なのだろう。

 

その日が来るまでには、きわどい出来事もあるが

こちらも気長に見守るしかない。

すべては、喜んでもらえる、安心できる生活を迎えるためである。

 

それにしても最近は、「ひとを喜ばせる、安心させる」ことより、

「自分を喜ばせてほしい、安心させてほしい」

というスタンスで生きているひとが、増えたような気がする。

 

これは、仕事の場面においてもしかりだ。

いつからか、やたらと「やりがいのある仕事を」とか言う奴が増えたけど、

やりがい=「自分を喜ばせる、安心させる」ことだと、勘違いしてねーか!?

 

やりがいというのは、他人をとことん喜ばせてはじめて、得られるものなのだ。

 

「自分を喜ばせてほしい、安心させてほしい」と思っているような輩は、

絶対にいい運やいい人間に巡り会えないし、いい風も吹いてこない! と俺は思うぞ。