不可解な事件の多発①
名古屋の老女惨殺、東京都中央区の金属バッド殺人、
和歌山の男児刺殺、渋谷のたてこもり……
と、ひっきりなしに事件が続いている。
なんというかもう、ビックリさえしなくなってきた。
しかし、いずれも動機や理由が理解しがたいからこそ、嫌な感じがする。
報道では、近隣住民や友人知人へインタビューを行っているが
「ごく普通の家庭で、感じのよいお子さんでした」
「あの子があんなことをするなんて」
と答えるひとがいる一方で
「普段から奇行が目立った」「最近様子がおかしかった」
と答えるひともいる。
これが、「嫌な感じ」の正体ではないだろうか。
つまり、家庭環境や家族関係、本人の学歴や経歴など、
表面的にはとても整ってみえるのに、
本人の抱える問題や闇は、すでにあふれ、気づくひとは気づいている。
まさに俺の請け負っている業務、家族の姿そのものだ。
俺の経験からすれば、少なくとも家族(とくに親)が、
本人の抱える問題に気づかないはずがない。
多くの場合、気づいていても「たいしたことではない」と甘く見ているか、
「なんとかしなければ」と思いながらも、自分の都合を優先して対応を後回しにしている。
「自分たちにさえ危害がなければ……」と考えている親すらいる。
これは、社会や家族が究極に「個」を追い求めた結果である。
個人の自由、個人の尊厳……それらが家庭内ですら尊重されるようになり、
倫理道徳などどこ吹く風、なんでもアリになってしまった。
こう書くと最大の自由が手に入ったように思えるが、自由には責任がつきまとう。
これまでは、自由が制限されていたからこそ、社会も一定の責任をもってくれた。
つまり、問題を抱えるひとを受け入れる寛容さが社会にもあった。
しかし今では、それこそ「自己責任」という言葉が飛び交っているように
自由気ままに行動し、成功をつかめば一躍ヒーローになれるが、
一度でも失敗すれば簡単に切り捨てられる社会なのだ。
自暴自棄になり事件を起こす人間が増えるのも、当然である。
だが真相は、まさに「個」(個人情報保護など)のベールに包まれ、
我々一般人は、不可解な思いが解消されないまま、事件を忘れていく。
日本の安全神話など、もうないも同然だと俺は思う。
これから先、いかにして自分で自分の身を守るか、家族の身を守るか。
もはやそれすらも「個」に委ねられる時代が来てしまったのだ。