捨てる
「家族は大切にしなければならない」と、当たり前のように言われるし、
それができないと、人間として欠陥があるかのごとく同情されたり、
「家族は大切にしなきゃ」「親孝行しなきゃ」と小言を言われたりする。
しかし俺は思う。
生きていくということは、大変だ。
人間としてプロフェッショナルでなければ、
家族という共同体を得ても、うまくいくはずがない。
殺傷事件にまで発展する親子関係や、
家庭内に大きな不安や心配ごとがある家族は、
ようするにその要員が、プロではないということだ。
俺のいう「人間のプロ」というのは、
なにも特別な才能の有無を言っているのではなく、
個々に生き方を確立できているか、
それを互いに尊重しあえているか、ということだ。
なぜなら問題を抱える家族ほど、
「親子だから」「夫婦だから」という名目のもと、
感情のみの言動で相手を振りまわしてみたり、
異常なまでに相手を支配したり、逆に依存したりしている。
仕事に置き換えてみると分かりやすいが、
プロフェッショナルであろうとしたときに大切なことは、
いかにして余計なものをそぎ落とし、極限まで絞り込めるか、に尽きる。
ひと言で言えば、「捨てる」ということである。
穏やかな生活を送れていない家族ほど、「捨てる」ことができていない。
夫婦や親子がともに、本来なら必要のない欲求や感情、我慢……
そういうものをたんまり抱えこんでいる。
問題解決のためには、それを「互いに」捨てるしかない。
「互いに」というところがポイントで、一方的に捨てるのではダメだ。
だからときには、夫婦関係や親子関係を切る(=捨てる)しかないこともある。
しかし家族同士で同じ問題に頭を悩ませ、こころをすり減らし、
憎しみ合ったあげく、最後は殺傷して問題解決、では、
あまりに短絡的すぎる。
そもそも犯罪を犯すということ自体が、
人間としてプロフェッショナルではないことの、究極の証である。
「刑法を犯すようなことは、どんな犠牲を払ってでも止めなければならない」
精神医学の師匠が遺した言葉を時々振り返り、
その文脈の意味を考えるのだが、俺には、
「人間のプロ」としての生き方を問われているように、感じられる。
アマチュアの人間は、物だけでなくひとに関しても、
さっぱり諦めたり、手放したり、巣立たせたりということができず、
家族も他人を振りまわし、どこまでも依存して生きていく。
が、ひとたび思い切って捨ててみれば、
案外すっきりとした気持ちで、生きていけるようにも思う。
現代は「個」を尊重し、「個」の消費を促す社会であるがゆえに、
実は、「個」の責任も問われているのだ。
刹那的、短絡的に、常に誰かのせいにして生きるのではなく
自分にとって大切なものごとを、取捨選択していかねばなるまい。
捨てる、ということの大切さを考える、今日この頃である。