川崎中1男子殺害事件③ ネガティブ問題の排除
川崎の事件では、被害者の少年がある時期から不登校になり、
他校の生徒とつるんでいたことは、学校側も把握していた。
教師も、何度も家庭訪問を重ねていた。
しかし本人を救うことはおろか、会うことさえできなかった。
これに関して、学校の教師は何をやっていたんだ、
教育現場はどうなっているんだと、批難する向きもあるらしい。
たしかにそれは、正論である。
正論ではあるが、今の時代にそぐわないと、俺は思う。
一方的に批難しているひとたちは、考えてみてほしい。
自分が当の教師の立場だったら、何ができただろう?
家庭訪問をしても非協力的な生徒の親に対して
「今すぐ子供に会わせろ!」と、強引に迫ることができただろうか。
生徒がつるんでいるらしい、札付きのチンピラ高校生に対して、
「うちの学校の生徒を連れまわすな!」と、怒鳴り込みにいけただろうか。
俺だって、もし今回の事件に介入するとしたら、
不良グループ相手に、単身で乗り込もうとは思わない。
それだけ危ない案件だと、容易に予測できるからだ。
俺ならば、学校や児相や警察といった行政機関をすべてまとめあげ、
最大限の危機管理、危険回避をしてから、介入する。
これは、俺が今までに現場重視の仕事を積み重ね、
危ない経験も嫌というほど積んできたから、分かることだし、
かつ実行にも移すことができる。
だからといってノウハウを学校や教師に教えたところで、
うまくいくとは限らない。
なぜなら実際の行動で問題解決を体現する際には、
「勘と感覚と感性」が、絶対に必要になってくるからだ。
この「勘と感覚と感性」は、勉強だけでは磨かれない。
危険を伴うような現場での経験があって初めて培われるのだ。
最近、起きている多くの事件を通じて、俺は
教師をはじめ、この国の「専門家」を名乗るひとたちに
決定的に足りないものが、いよいよ露呈されたと感じている。
それは、危険予測、危機管理、危険回避の能力である。
俺の本業である精神保健分野の専門家も、また然りだ。
病気の家族を抱え、困っている市民に対して、
なぜ、行政(保健所や精神保健福祉センター)の職員は、
患者に会って治療をすすめるなどの現場対応をしてくれないのか。
その理由は「怖いから」「何かあったら困るから」につきる。
精神科病院の現場においても、患者による暴力リスクを恐れ、
面倒な患者をただ排除するだけの医師や職員(=専門家)は、たくさんいる。
これは裏を返せば、
専門的な学問を修了した「専門家」を名乗るひとたちでさえ、
危険予測、危機管理、危険回避に関して集中的に学んだり、
経験を積んだりする機会がないことの、現れである。
ここに、日本の専門家教育の限界が、見えてくる。
危険予測、危機管理、危険回避……
これらはすべてネガティブな問題である。
つまりこの国の「専門家」を名乗るひとたちに足りないのは
ネガティブな問題に対する対応力、とも言えるのだ。
あれ!? そもそも問題解決というのは、
=ネガティブな問題に挑む、ことではなかったか?
そう考えてみると、佐世保の事件にしても今回の事件にしても、
教師を含む専門家たちが、あからさまなサインに対して何もできず、
みすみす事件化させてしまったのも、当然のことに思えてしまう。
これは専門家の教育に限ったことではないかもしれない。
学校教育でも家庭の躾でも、
ネガティブな問題に立ち向かうことを、大人自身が極力、避けて通り、
「やさしさ100%」みたいな教育や躾に、終始してはいまいか。
ネガティブな問題ほど、人間の頭を鍛え、
感性や感覚を育むものはないと思うんだけどな。
命をかけろ、とまでは言わない。
でも、なんらかの負荷がかかり、身やこころを削るからこそ、
真剣に考えもするし、斬新なアイデアも出てくる。
ネガティブな問題を排除する生き方は、たしかにラクである。
が、脳みそや「勘・感性・感覚」を鍛えることにはならないのだ。
脳みそも「カン」もゆるくなった結果が、
昨今の恐ろしい事件の連発……つまりは、「よりネガティブな大問題」
を招いている。俺にはそう思えてならないのだ。