言葉の使い方

家庭内暴力という言葉がある。

 

こういった問題とあまり関わりのないひとにとっては、

「親の愛情不足からくる反抗期の激しい版」であり、

「一時的なもので、成長とともに落ち着いていくもの」

と捉えていることが、多いかもしれない。

 

だが現実は、そんなに生やさしいものではない。

もはや「家庭内殺人」「家庭内恐喝」と言えるほどの

凄惨な「事件」が、家庭内、親子間で起きているのだ。

 

対象者の年齢が上がるほど、その色合いは濃くなっていく。

精神疾患が要因の一つとしてあることもあるが、

家族、親子間での複雑な愛憎も、大きな要素となっている。

病気が治ればいい、という問題ではないのだが、現実には、

「家族の絆」的なものに対する無条件の信仰があるひとも多く、

親子で袂を分かって生きていくやり方は、なかなか受け入れられない。

 

もちろん、対象者が未成年のケースであれば、

「反抗期の激しい版」「親子喧嘩の延長」と言えるレベルの問題もある。

ただしそういったレベルの家庭には、

学校や児童相談所などが積極的に介入してくれるので

なんとかおさまっていることも多い。

 

とはいえ、義務教育を卒業してしまえば支援の対象外になってしまう。

「家庭内殺人」「家庭内恐喝」の域に達しているケースとなると、

児相など行政の介入も積極的ではない。

暴力や恐喝ともなれば、110番通報するしかないのだが、

未成年だからこそ、親がよほど強固な意志を示さない限り、

警察も「家庭内の問題(民事不介入)」と判断せざるを得ない。

 

親にしてみれば八方ふさがりで、

(未成年の)子供を見捨てて逃げるしかないところまで、

追い込まれていることもある。

 

最近は俺のところにも、こういった事例の相談が多く寄せられている。

「親力」が弱まっていることも一つの理由だろうが、

社会の有り様が、そこに拍車をかけているのを感じる。

 

10年くらい前までは、こういった子供たちは、不登校やひきこもりが主だった。

学校に行かなく(行けなく)なれば居場所もすることもなくなり、

不規則な生活を送るようになり、こころまで蝕まれていくケースである。

 

しかし最近は、不登校だがひきこもりではなく、

フットワークが軽い子供が、やたらと多い。

なぜかと言えば、お金さえあれば、1日を楽しく過ごせる術を、

彼らは身につけてしまっているからだ。

 

メシはコンビニ飯やファーストフードで十分だし、

スマホやゲームやアニメがあれば、いくらでも時間をつぶせる。

だから、親に要求するのは「金」の一点に集中する。

そのために、暴力をふるい、暴言を吐く。

 

親は親で、未成年なだけに「出て行け」とも言えず

「まだ何とかなるのではないか」という気持ちも捨てきれない。

しかし、学校や行政から見放されてしまえば、

第三者の協力を得るには医療からのアプローチしかなくなるため

「発達障害ではないか」「ゲーム依存ではないか」と

子供を医療機関に連れまわし、病気の道を模索しはじめる。

 

良心的な医師に巡り会えれば事態が好転する可能性もあるが、

場合によってはそれが、子供に免罪符を与えることにもなる。

 

子供が、「病気」を理由に狂気を出し入れし、

親をコントロールすることにも、なりかねないのだ。

 

根底にあるのは、親の関わり方の問題(簡単に言ってしまえば愛情不足)

であることは間違いないのだが、事態は複雑化しており、

今さら愛情を示せばいい、という問題でもなくなっている。

 

それゆえに、一歩間違えば命の危険さえあるところまで到達している。

まさに「家庭内殺人」「家庭内恐喝」であるのだが、

「家庭内暴力」という言葉には、その危機感が欠如しているように感じる。

 

俺も含め対応する側としては、「家庭内暴力」に限らず、

言葉の持つイメージに左右される危険性に、敏感でいなければ、と思う。

なんにせよ、真実を見極めること。

そこにしか真の解決はないのだと、改めて思っている。