身近なひとこそプロフェッショナル
テレビなどでの紹介では、俺のことを
「説得のプロフェッショナル」と呼んでいただくことが多い。
だが、俺は国家資格を持っているわけではないし、
どこかの組織に属しているわけでもないので、
自分が「専門家」であるというふうには思っていない。
「プロフェッショナル」という呼称や、「先生」なんて呼ばれることは、
本音を言えば、少々、気恥ずかしい。
そもそも俺は民間の形態でやっているため、
危機管理やコンプライアンス上、
介入のきっかけは、ほとんどが家族からの相談になる。
言ってみれば、完全なる受け身である。
これは主管行政機関である保健所や精神保健福祉センターも同じで、
家族の相談があって初めて、動くのであって、
予防的な意味合いで、継続的な見回りや家庭訪問などを行うことは、
ゼロではないが、積極的ではない。
しかし、「相談」という第一歩さえ踏み出せない家族も、
かなりの数、いるはずである。
たとえば、うちの事務所への問い合わせでも、
話の最中に、「本人が近くに来たから」と突然、電話を切られたり、
家からはかけられないからと、外の公衆電話からかけてきたり、
公的機関への相談を勧めても、
「束縛がひどくて外出できない」と言われたり……
事態の深刻化が、当事者家族から
客観的な思考力や判断力を奪ってしまっている。
相談さえ落ち着いてできない事例も、多いのだ。
だからこそ俺は、この問題の解決には、
その家族の身近にいる方々の、いわゆる「おせっかい」が、
絶対的に必要なんじゃないかと思っている。
とくに最近は、渦中にいる親子の差し迫った危険を見るに見かねた
対象者の兄弟姉妹、おじやおばなど親族がキーマンとなって、
依頼をしてくるケースも増えている。
もちろん、むやみやたらに介入せよ、と言いたいのではない。
中には、警察沙汰一歩手前の状況の家族の問題もある。
そのような危険度の高い問題は、介入する側の命の危険さえあるので
むしろ、安易に飛び込んではいけない。
そこまで行ってしまったときには、俺のような役割の人間や
公的機関に、なんとしても介入してもらうしかない。
しかし実際には、そこに至るまでの前段階で、
何かしらのサインが発せられているはずなのである。
身近な家庭におけるそれらのサインに、
周囲がいかにして気づき、見守り、手を差し伸べるか。
第三者のほうが、客観的に事態を見て、
冷静な判断、行動をとれる場合が多いのである。
当ブログへのコメントの中にも、
「こういう問題(予備軍)は、自分の周りを見回してみれば、けっこうな数ある」
というようなことを書いてくれた方が、何人かいた。
このような「気づき」「感覚」は、
俺からしてみれば、「プロ」の域である。
この点に関して、俺が比較対象としてよく考えるのが
児童虐待の問題だ。
何年か前までは、自分の周囲に虐待を疑う家庭があっても、
通報するという概念すらなかったし、
仮に通報しても、公的機関に動いてもらえることはなかった。
しかし虐待により幼い命が奪われるという、
悲惨な事件が相次いだこともあり、
今では、第三者が「虐待かも」と思った時点で、
相談・通報できる仕組みもできた。
今年の夏からは、「189(いちはやく)」という
児童相談の専用窓口(電話番号)も開設するという。
実際に、第三者の通報により公的機関が速やかに介入することで、
子供の命が助かっているケースがあるからこそ、
こういった流れになっているのだろう。
そのようなケースにおいて、誰が子供の命を助けたのか?
気づいて、通報した第三者こそが一番の立役者であり、
受け身でしか動けない、公的機関の専門家ではない。
俺の言葉でいうと、その人物こそが「プロ」なのだ。
もちろん、児童虐待と精神疾患の問題を
同じものとして扱うことはできないが、
第三者からの相談(申請)ということでは、
精神保健福祉法にも、「一般申請」という仕組みがある。
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(診察及び保護の申請)
精神保健福祉法第22条
精神障害者又はその疑いのある者を知つた者は、
誰でも、その者について指定医の診察及び必要な保護を
都道府県知事に申請することができる。
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あなたの身近に、こういった問題を抱えながら、
公的機関に相談にいく気力すらない家族や親族がいたときに、
代わって相談(申請)にいくことは、
精神保健福祉法上も、保障された行動なのだ。
おそらく、窓口である保健所や精神保健福祉センターは
なかなか積極的に動こうとしないだろう。
しかし、「一般申請」という仕組みが広く周知され、
活用しようとするひとが増えれば、機運も高まる。
これら精神保健福祉法の解説、活用の仕方は、
俺の著書に、詳しく書いてある。
必要な条文などもきっちり載せているから、
なんだったら保健所に俺の本を持っていって、
「押川っちゅう奴が、こういうふうに書いている!」
と、行政を動かす説得の材料に使ってもらってもかまわない。
俺一人が声を上げても、この問題は解決しない。
当事者はもちろん、彼らの存在に気づき、
どうしたらよいか、なんとか救いたいとこころを痛めている、
多くの第三者の気持ちこそが、世の中を動かすのだ。