常識と非常識

俺の仕事のスタイルは、ときに他人から

「非常識ですよね」と言われる。

 

たとえば俺が移送の仕事をするときには、

行政機関の職員と、大喧嘩になることがある。

 

それは、彼らが自分たちの役割、それこそ、

彼らの「業務の手引き」にきちんと掲載されている、

自宅訪問や医療機関との連携などを、

一生懸命、やってくれないからである。

 

そういうときは、俺もつい地が出ちゃって

「そこは、おたくらの仕事だろう!」と吠えてしまう。

 

これは、家族では言えないことだからこそ、俺が代わりに言う。

それで職員が「押川なんかに文句を言われたくない!」と思って、

奮起して、仕事をしてくれるなら、それでいいではないか。

 

もちろん、中には、こちらの話に耳を傾けてくれて、

最初から、しっかり仕事をしてくれる職員の方もいる。

そういう方に対しては、俺は吠えたりしない。

誠心誠意、紳士的な対応を心がけている。

 

それ以外でも、本人を説得する際や、自立・更生を促す際、

俺が「こういう方法はどうだろう?」と出すアイデアには、

うちのスタッフでさえ、最初は渋い顔をする。

それが、常識的ではないアイデアだからだ。

 

そしてその非常識なアイデアを成功させるためには、

いつも以上に関係者に根回しをしたり、頭を下げたり、

場合によっては、嫌われるのを覚悟で、文句を言ったり、

ハッパをかけまくったり、しなければならない。

 

それが面倒だから、皆、常識的な方法をやりたがる。

 

昨日のブログに「アイデア(知恵)」について書いたが、

アイデアというのは、往々にして、非常識なものではないだろうか。

最近、俺はそのように考えている。

 

少なくとも、俺の周りで、いい仕事をしているひと、

いいものを作っているひと、そしてしっかりお金を稼いでいるひとは、

だいたい非常識な発想ばかり、頭の中にある。

 

もちろん、それが法を犯すようなことであったり、

あまりにもひと様に迷惑をかけるようなことではいけない。

 

しかし、これだけあらゆるものが飽和状態の世の中で、

常識的な発想だけでは、いいものも生まれないし、問題も解決しない。

 

だいたい俺に言わせりゃ、

俺のお世話になるような家族は、

家族自体が非常識なんだよ。

 

じゃなきゃ、親子間で包丁を持ち出したり、

「死ぬ」だの「殺す」だのの言葉が飛び交ったり、

そんなことが、起きるわけないだろ!!

 

俺が、「組織に属さず、国家資格ももたず、助成金も受けず」

というスタイルで家族の問題に携わっている理由は、

まさにそこにある。

 

どっかの組織に属して、「先生」なんて呼ばれて、

公金なんかもらってしまった日には、

常識的なやり方ばかり求められることになって

本当のことも、言えなくなる。

 

広く浅く、仕事ができるようにはなるかもしれないが、

それでは、最大級に難しい問題、俺流に言えば「超・非常識」な家族の問題は、

解決できないし、踏み込むことすら、できなくなるだろう。

 

だから俺は、身体一個の俺で、勝負している。

失敗したときには、俺だけが叩かれときゃいいんだから、話が早いしな。

 

もう一つ言っておくと、

親は「躾」と称して「常識」を重んじるけれど、

「あれをするな」「これをするな」「こうしろ」「ああしろ」

と子供を縛りつけることは、ほどほどにするべきだ。

 

親のいう「常識」を押しつけすぎると、

非常識な「アイデア(知恵)」は、出てこない人間になる。

 

そして、その押しつけの度が過ぎたときには、

家族や他人を困らせるだけの、

非常識な「言動」ばかりとる人間になることさえ、あるのだ。