「ひきこもり」という名称
昔のことは、普段、忘れているたちなのだが、
あるきっかけがあって、じっくり思い出してみた。
説得による移送をやってみようと思いたち、
自分なりに保健所などをまわって勉強を重ね、
実際にはじめての移送に取り組んだのは、28歳のときだった。
タウンページに広告を載せたところ、
すぐに電話が鳴りつづけ、反響の大きさに驚いた。
最初は、今のように事前のヒアリングや視察業務などしておらず
概要を聞いたら、すぐに動く、というところから始めた。
経験不足ということも、当然あったが、
実際の現場は、「壮絶」というひと言に尽きた。
対象者の自室の寝床に包丁が置かれていた、
なんてことは日常茶飯事だった。
家族から本人の部屋に通されたところ、
いきなり斧を振り回されたこともある。
俺はそのとき、とっさに自分の頭を差し出した。
頭蓋骨なら、そう簡単に割れないのではないか、と思ったのだ。
幸いにして相手は、俺が頭を差し出したことに拍子抜けしたのか、
大人しく斧を下ろしてくれたのだが、生きた心地がしなかった。
他にも、かなづち、ハンマー、日本刀、牛刀、
弾を込めれば撃てる改造モデルガン、鉄製のダンベル……
移送の現場では、ありとあらゆる凶器を見てきた。
ほとんどの家族が、問い合わせや依頼の段階では、
その危険な現状を、教えてくれなかった。
ただ「すぐに来てくれ」「とにかくやってくれ」と言う。
そして、自宅に到着すると、親は本人の部屋に入ろうとせず、
「どうぞ、入ってください」と、俺を促すのだ。
今、思い出しても、本当によく死ななかったな、と思う。
その代わり、移送が終わったあとは、
脳が痙攣したようにしびれてしまって、
言葉が出ない、文字が書けない状態が一週間近く、続いた。
今でも、移送のあとは、脳みそが飽和したように感じるが、
経験を積んだおかげか、二、三日で元通りになるようになった。
ともかく、俺の知っている「現場」は、
それほどの危険に満ちていたのである。
(もちろん、そうではない現場もあったが)
俺がこの仕事を始めたときには、
すでに「ひきこもり」という言葉が世に出ていたと思うけれど、
その言葉の響きや、定義に、非常に違和感を抱いた。
問題を抱える家庭の中に起きていることは、
そんな生やさしいものではなかったからだ。
自分自身が社会との接点を断つだけでなく、
親やきょうだいをも、日常生活から隔離させる。
「ひきこもり」というよりは、「たてこもり」「自宅籠城」だ。
今、「ひきこもり」の中でも、就学や就労の意思があり、
少なからず他者とのコミュニケーションがとれる対象者に関しては、
行政やNPO法人を主体として、さまざまな支援体制が組まれている。
しかし、「たてこもり」や「籠城」レベルのケースには、
未だに、手をつけられる専門家がいない。
その現実を肌で感じているからこそ、家族も、
我が子の問題を「ひきこもり」という言葉で捉え、
軽く見積ることで、思考停止しているフシがある。
俺は現場の怖さを知っているから、
そういう家庭の最前線に、保健所など行政の職員が行くべきだ!
とは、とても言えない。
むしろ、「できない」という事実を認め、
公にすることが大事なのではないか。
それが、新しいシステムやプロフェッショナル集団をつくるための、
第一歩になると思う。
こういった問題を抱える対象者の中には、
精神疾患を患っているひともいる。
あるいは、家族をはじめ第三者への暴力、虐待、恐喝等、
犯罪行為が行われていることもある。
昔ながらの「ひきこもり」の概念をひきずることは、
現実から目を背けることに等しい。
過去には、「合法ドラッグ」が「危険ドラッグ」に名称変更した例がある。
これも、「合法」という名前の軽さが使用者を増やし、
人命を奪うほどの事件や事故が多発する結果となった。
たかが名前、と言われるかもしれないが、「危険ドラッグ」に変わったことで、
抑止力には大きな変化があったはずだ。
「ひきこもり」に関しても、通常、我々が認知している問題以上の
危険をはらんだ出来事が、家庭内で起きている。
そこにしっかり向き合って、たとえば「ひきこもり」を「たてこもり」に名称変更するなどして、
意識から変えていかない限り、家族の問題は、決して解決できないのだ。