多様化する問題

「家族の問題」というと、単位的にはとても小さいのだが

それでも昨今は、家族が抱える問題も多様化しているのを感じる。

それはすなわち、介入の難しさにつながる。

 

もちろん昔にも、難問はあった。

「なんだコリャ!」と言いたくなるような、

めちゃくちゃな家族もいた。

 

だけど、ほんの10年くらいまでは、

家族や対象者、精神科医療を含め社会においても、

「これは人間として、ダメだろう」というような、共通言語があった。

 

かたい言葉で言いかえれば、「倫理・道徳観」になるのだが、

その部分で、双方が暗黙の了解のもと、話ができた。

 

でも今は、それができなくなっている。

「法を犯していないんだから、いいだろう」

もっと言えば、違法薬物など法を犯していても、

「バレなきゃ、いいだろう」という理屈を、

本人だけでなく家族も、許容している。

 

家庭内のことになると、社会の目が入りにくい分、

家族のルール、つまり親の倫理・道徳観や正義によって左右される。

子供の暴力や暴言に関して、親は「ダメだ」と言うが、

過去を振り返ってみると、それを許してきた、許容してきた時期があるのだ。

 

いつも言っていることだが、「本人の意思」が尊重されるあまりに、

全体として共通認識できる、倫理・道徳観はなくなっていると思う。

つまり「個人を尊重する」ことは、究極の「自己責任」でもあるんだな。

 

だから、過ちを犯した人間、レールから外れた人間のことは、

社会全体で徹底して、立ち直れないくらいまで、叩きまくる。

 

これは、芸能人やスポーツ選手など、メジャーな人間に限ったことではない。

好きなことを自由にできる代わりに、何かあったら「自己責任」と言われる。

 

たとえば家族の問題でも、とてつもない危機的状況にあっても、

少しでも手に負えない要素があれば、誰も相手にしない。

「事件が起きても、しょうがない」「親子で殺し合いになっても、しょうがない」

と、暗に言われているようなものだ。

 

俺の専門でいえば、「法律(精神保健福祉法)上は、

行政がやらなければいけないことになっている」という事柄さえ、

言葉は悪いが、現場職員の考え方一つで、無いものにされる。

 

これを、対岸の火事と思ってはいけない。

 

社会的には、個の多様化、個の自由が促進されたことから、

法律もどんどん整備され、ものすごい制約の中で俺たちは生きているのだが、

現実には「マイルール」がまかりとおる、

そんな社会になっているのを感じる。

 

プライバシーにしたって、最大限、尊重される代わりに、

何か困ったことが起きた、トラブルに巻き込まれたというときには、

内部で起きていることが分かりにくく、

第三者に介入してもらうことが難しい。

 

個人が尊重されるということは、物事が多様化していくことであり、

プラス面はともかく、マイナス面に対して対応が追いつかなくなるのは必然だ。

「これから先もずっと、法整備に則って、国が、社会がなんとかしてくれるだろう」

なんてことは、本当に「あり得ない」ことになっていくだろう。

 

今、地域コミュニティの価値が見直されているけど

これってまさに、時代の象徴だと思う。

社会のルールは当てに出来ない。でもマイルールで生きるのは不安。

そこで、地域というほどよい単位のルールこそが、求められているのではないか。

 

そういう意味では、この先、どの地域で生きていくかってことが、大事になるな。

とくに、これから子育てをする若い世代は、真剣に考えたほうがいい。

家庭のトラブルに対する介入の度合い、受け入れ先の有る無しにしたって、

自治体によって大きく差があるのだ。

 

俺は独り身だけど、さすがに最近は年をとったせいか、

「じいさんになってまでも新宿で生きるのは嫌だな~」と思うようになった(笑)

 

老後は、海の見えるどっかの地域に入れてもらえるよう、

今のうちに頑張っておかなきゃな!