相模原障害者施設殺傷事件 植松被告は「招かれざる客」だった

事件はなぜ防ぐことができなかったのか

戦後最悪とも言われた凄惨な事件から26日で一年が経った。神奈川県相模原市の障害者施設において、元職員の男性が十九名の入所者を殺害し、二十七名に重軽傷を負わせた、相模原障害者施設殺傷事件である。

テレビ、新聞など報道の大半は、差別やヘイトクライム、共生社会をどう実現するかといったところに焦点が当てられていた。その側面からの考察はもちろん必要だ。だが私は、この事件を教訓として、再発防止の視点から考えを述べたい。

 

植松聖被告は、起訴前の鑑定留置で「自己愛性パーソナリティ障害」と診断を受け、完全な責任能力を問えると判断され、起訴された。被告の診断名については、事件前の措置診察の段階では「大麻精神病」「非社会性パーソナリティー障害」、「妄想性障害」「薬物性精神病性障害」、入院中は「大麻使用による精神および行動の障害」といった診断名がつけられている。これら診断に関しては、多くの専門家がさまざまな見解を述べてきた。中には「被告の言動は、精神疾患ではなく優性思想によるものだ」「精神医療ではなく司法として対応すべきだった」といった意見もあり、「措置入院自体が誤りだった」と主張する専門家もいる。

 

しかし、被告が事件前に大麻など違法薬物を乱用していたことは紛れもない事実であり、措置診察や入院後の診察、鑑定留置において、精神疾患と診断されている。責任能力の有無の判断は司法に委ねるとしても、被告には精神科の治療が必要であったことに疑いはない。ではなぜ、事件が起きてしまったのか。この事件は、日本の精神医療及び精神保健福祉行政の盲点を突かれたのだと、私は考える。

 

 

「招かれざる客」

今年二月、私は日本の司法や精神医療の最高権威者が集まる研究会にゲストとして招聘された。関係省の助成研究事業により、20年以上続いている完全クローズドの研究会で、法学者や司法精神医学者、精神医療従事者、裁判官、弁護士など錚々たるメンバーが集まっていた。

無資格かつ、助成金や補助金などを一切受けていない私が呼ばれたのは、ひとえに「精神障害者移送サービス」を日本で初めて創始し、それにより培ってきた経験を買われてのことである。

 

「精神障害者移送サービス」を始めてから20年になるが、この間には、精神疾患をもつ当事者のみならず、家族が抱える問題や苦悩の数々を目にしてきた。もちろん悪いことばかりではなく、精神科病院への敷居は低くなり、地域移行が進められた結果、精神障害者が暮らせるグループホームなども増えつつある。ただしそれを利用できるのは、あくまでも病識があり、自ら服薬や通院ができる患者に限られる

一方で、病識がなく治療を拒んでいる患者や、症状が重篤化、慢性化した複雑対応困難な患者に関しては、受け入れてくれる医療機関や施設も少ない。精神保健福祉法(第34条)には、行政による移送制度が規定されているが、医療への公的なアクセス(移送)方法はほとんど機能していない。結果的に、病識のない重篤な患者さんほど家庭や地域に取り残され、放置されている。

私は数年前よりこの実態を憂慮し、テレビ出演や著書の執筆を通じて訴えてきた。そのような中で、相模原障害者施設殺傷事件が起きた。

 

先に述べた研究会では、司法精神医学の重鎮である学者が、「植松被疑者(当時)は、『招かれざる客』だった」と発言した。その言葉は、私が「精神障害者移送サービス」を通じて感じてきた危機感を的確に表すものだった。学者いわく、「日本の精神医療は、『統合失調症モデル』が中心であり、皮肉にも最先端の治療をおこなっている医療観察法でさえ、そうなってしまっている」という。欧米で主流となっているパーソナリティ障害や薬物依存症、小児性愛などの異常性癖等、いわゆる精神病質に対する治療は、日本ではまったく排除されているのだ。

とくに薬物に限っては、日本の精神医療、精神保健福祉行政において「招かれざる客」になってしまっている。たとえば、薬物依存症患者が警察官通報により措置入院となった場合にも、入院先はその日の当番病院となり、薬物依存症専門の医療機関での治療がなされるわけではない。急性症状が治まれば退院、あとは本人の意思による通院治療に任される。まさに、植松被告の辿った経緯である。

学者は、「まずこの意識を変えていかないと、再び同様の事件が起きてしまう」と悲痛なまでの訴えをしていた。

 

 

精神病質者に対する治療をどうするのか

私の師とも言える精神科医、糸井孝吉氏(故人)は、城野医療刑務所(現北九州医療刑務所)で長く所長をつとめ、その後は民間の精神科病院で、覚せい剤・大麻・有機溶剤など薬物依存症の治療にあたっていた。氏は、「覚せい剤精神疾患治療の覚書―精神病質者に対する私の接し方―」と題する研究論文を発表している(平成14年5月18日の卓話原稿)。その論文はいまなお色あせず、いや、むしろ、糸井氏が植松被告の治療にあたっていれば事件は防げたと断言できる。

この中で糸井氏は、薬物依存症やアルコール依存症の治療とは、その根底にある精神病質、人格障害(パーソナリティ障害)を治すことだと断言している。糸井氏の考える治療のあり方について、論文から幾つか引用する。

 

まずは幻覚妄想や易刺激性亢進を抗精神病薬で取ってやり、覚せい剤を注射しなくても落ち着いて毎日が暮せるという生活を体験させることで断薬にある程度自信を持たせ、過去の生活を反省させながら、薬害教育を施し、作業療法に誘導するというやり方が原則だと思っています。

 

私はその精神病質類型を把握したうえ、彼らの要求に正面から理屈で対応し、彼らが置かれている状況を正確に理解させ、その上で彼らの過去の行動を反省させ改善するよう求めます。(略)時には部分的に彼らの主張や要求を容認せざるを得ない場合であっても決して迎合はしません。先に述べましたように、彼らは様々な理由をつけ、屁理屈を捏ねてなんとか早く退院しようとします。それを一つずつ論破していくのですが、そのために私は彼らの理解力に応じた表現で、誤解の余地のない言葉を使って正確に治療者の意図を知らせ、嘘は言わないことにしています。

 

私はこのやり方を「覚せい剤から足を洗うために道場に入門したようなもの、きれいごとで覚せい剤と縁は切れない」とひそかに考えているのです。ついでに申せば、私は面接中に「この患者がいっていることは嘘かもしれない」という警戒心を常に持つようにしています。もちろん、「君のいうことは嘘だろう」と決めつけるまでに至ることは滅多にありませんが、伝家の宝刀はいつでも抜く覚悟が必要で、「性善説」の信奉者は精神病質の治療には向かないと思います。

 

また精神病院の入院期間は短いほうが善であり、長いのは悪だという考え方にも困らされます。精神病質を良くする、異常な人格を矯正するということは治療者側の長いたゆみない努力が必要なのであり、患者側の治療意欲を治療者が常にかきたてないと効果は上がらないと私は思います。軽くなればあとは社会で治しましょうという分裂病中心の性善説が通用する社会復帰とは違うことは武村(注:武村信義)の指摘の通りなのですが、入院期間が長いのは悪だから入院費(注:診療報酬)を逓減するのでは精神病質者は味をしめてますます勝手な行動をすると思わざるを得ません。

 

分裂病(注:統合失調症)治療が中心の精神病院と精神病質治療が中心の覚せい剤・有機溶剤・アルコール病院とは施設、病院つくりの段階で異なる方針に従わなければならないし、その結果、組織や運営も異なるのはやむを得ないと私は信じております。

 

 

精神保健福祉法を遵守せよ

ここで「精神病質」について述べると、精神保健福祉法第一章総則第五条(定義)に、精神障害者の定義として明記されている。

(定義)

第五条 この法律で「精神障害者」とは、統合失調症、精神作用物質による急性中毒又はその依存症、知的障害、精神病質その他の精神疾患を有する者をいう。

 

「精神病質」をどう捉えるか――。ICD10(国際疾病分類第10版)においては、F60.2「非社会性人格障害」やF60.9「人格障害、詳細不明」の中に、それぞれ精神病質的パーソナリティ障害、精神病質として記されている。つまりパーソナリティ障害も治療の対象になると考えることができるが、実際には我が国では昭和40年代以降、性格の歪みは治らない、医師との信頼関係が築きにくい等の理由から、精神病質者の入院治療は病識のある者に限定されてきた。

その定義は今なお曖昧なままで、当然ながら、精神病質に特化した専門家の育成や、専門施設の設立もなされてこなかった。

 

病識のない精神病質者が医療を受ける権利を行使できるようにするために、どうすればいいのか。誰が責任をもって医療につなげるのか。受け入れ体制をどうするのか。国民に周知するかたちでの議論もされないまま、「患者の意思を尊重する」という言葉で曖昧なままにされてきたのだ。治療を諦めて漫然と放置せよというのであれば、精神保健福祉法第五条そのものを見直すしかない。

精神医療は犯罪抑止のためにあるのではないという意見はもっともだ。しかし、司法と医療を明確に区別することは難しいことも事実である。たとえば違法薬物の乱用は刑法に抵触する行為であるが、いっぽうで「依存症」というれっきとした精神疾患でもある。精神科受診後に乱用の事実が発覚した場合、「治療を優先するために警察には通報しない」と公言する精神科医もいる。そもそも「措置入院」という制度自体、自傷のみならず他害行為を防ぐ意味合いも含まれている。

 

精神病質・人格障害にどのように対応(診断・治療)するかは、糸井氏の言葉を借りれば「精神病院のどぶさらえみたいなもので、見栄えも悪いし、他人もあまり評価してくれない領域」である。専門家でさえ排除されるのだから、患者が「招かれざる客」になるのは当然でもある。

だが糸井氏は生前「性格の異常は治らないという理由で精神病質者が精神病院に入院させてもらえない時代であるが、治せないとしても素人よりは精神科医の方が対峙は上手な筈である」と話していた。またそのための努力なくして、日本の精神医療に発展はないというのも、氏が訴えていたことである。

 

法治国家において、精神保健福祉法第五条が遵守されない現実があってはなるまい。自傷他害行為の恐れが精神病質によるものとなると、医療ではなく司法に振られている現状を「仕方がない」と認めることは、その家族や一般市民が犠牲者となることを容認することにもつながる。

この私の主張や改善のための提言に関しては、先の研究会でも存分に述べた。ルールを明確にすると同時に、困難な問題に携わる精神科医や医療機関が、正当に理解され、評価される社会であってほしい。

 

最後になるが、相模原障害者施設殺傷事件から一年が経った今年は、被害者の人となりや家族とのエピソードに触れた報道も多かった。事件当初はほとんど秘匿されていた彼らの日常を知り、胸の詰まる思いがした。無辜の命を奪われた方々に、心より哀悼の意を表します。