「老いる」という成長
新聞や本など、遠くに離さないと文字が見えなくなった。
顔の皮膚がたるんで、しわも目立つようになった。
年寄りに生えるような、太くて長い眉毛が生えてきた。
頭の毛もだんだん薄くなってきた。
白髪がぽつぽつと増え、鼻毛の中にも白髪を見つけた。
気づいたら、き○タマにも白い毛が生えていた。
俺は今年、45歳になった。最近は視覚的にも、「老いる」という成長を感じている。
老けることを嫌がる連中は多い。だが俺は、老いるということをイイ感じの成長として捉えている。老いるという成長のおかげで、若い時よりも自然体でいられるようになった。肉体は衰えたかもしれないが、精神面は、昔よりさらに強くなった。なんていうか、どんな場面、シチュエーションでも、心の奥底から、絶対的な自信が湧いてくる。
さんざん痛い目、ヤバい目に遭ってきた俺だけど、こうして生きている。「人生はどうにかなるものだ!」と思えるから、恐怖や不安もない。
「この若造が!」なんて言われることもなくなった。若い連中からは「おっさん」と呼ばれるようになった。見た目に貫禄がついたぶん、頭の悪さを少しは隠せるようになったのかもしれない。俺の顔を見ただけで、他人さまがそそくさと向こうへ行ってくれたりするのを見ると「俺も重みが出てきたのかな」と思ったりもする。
仕事に対しても、年齢とともに嫌でも進化せざるをえず、「第二ステージに突入するぞ」と強い決意を抱いている。俺にとって「老いる」とは、止まったはずの成長が再び起こっているような感じだ。
俺が、23歳で自分の会社を興した時、取引先も従業員も周囲はみんな、目上の大先輩ばかりだった。なので、あえて老けて見せようとアイパーをかけたり、老けた会話を身につけるために、親父たちの通う大箱のキャバレーに通いつめたりした。
高級品を身にまとい、自信のなさを隠した。舐められないように、めいっぱい背伸びもした。当時はそんな風に思っていなかったけど、金を使うことで人の心をつかもうとする、そんな時期もあったかもしれない。
しかし今は、そんなことをせずとも、年相応に見てもらえるようになった。金をばらまかなくても、俺を信頼してくれる人は離れていったりしない。単純な俺は、「ようやく時代が俺に追いついたな!」と、嬉しくなる。
だから俺は、老化を防ごうと努力したり、若作りに励んだりしている連中を見ると、逆に舐められちゃうんじゃないの? と心配になる。ちょっと前に新宿の街中で、昔さんざん通っていたキャバレーの、なじみのホステスとすれ違った。もうけっこうないい歳こいているはずなのに、目いっぱい、力いっぱい、若作りをして店に向かっていた。
お化けかと思った。
いや、本人がそれを楽しんでいるなら、俺も何も言わない。でも彼女からは、どこか思いつめたような必死さが漂っていた。俺は声をかけることすらできなかったし、むしろ怖くなって、下を向いて通り過ぎた。怖いモノなどないと自負している俺だが、さすがに怖気づいた。
一生懸命生きて、年を重ねていく。そういう人のしわや白髪には、すごく迫力があるし、年齢相応の生き様には、それだけで価値を感じる。
「老いる」という成長を、若作りで覆う必要なんてないと、俺は思う。その価値を分かっていない、それこそが不幸ではないだろうか。