映画『鬼畜』
1978年公開の映画である。俺はこの映画を、通算で10回以上は観ている。
ざっくりとあらすじを言うと、こんな感じだ。
印刷屋を営む男が、愛人に産ませた三人の子供たちを引き取るハメになる。男は四苦八苦しながらもなんとか育てようとするが、気の強い本妻は、子供たちが気に入らない。男は妻に責められて、子供たちを一人ずつ「処分」していく…
観たときの年齢や心境などによって、その都度、感じたことは異なるが、一つだけぶれない、俺の視点がある。ラストで、6歳の長男が男(父親)について、ある言葉を放つ。観る人によっては、原作にはないその言葉を、「子供の父親への愛だ」、「子供なりのプライドだ」と捉える向きもあるようだ
だが俺は、これは「子供から親への絶縁」なのだと受け止めた。男と妻と、子供たちの親子関係は、地獄のように絶望的だ。長男は虐待を受け、殺されるかもしれない…という目にもあっている。6歳といえども、本能で、親と絶縁する以外に生きていく道はないと悟り、魂から出た言葉が、ラストのセリフなのだ。
俺は今まで、家族の問題の中でも、「親」からの依頼を多く受けてきた。最初は、子供の「ひきこもり」や「家庭内暴力」「薬物やアルコール依存」など、表面的な事象について相談にやってくる親がほとんどだ。でも問題の核心にたどりついてみると、たいていの場合、そこには親と子の長年に渡る確執があった。
虐待や育児放棄は論外だが、それ以外で多いのが、親の生き方や考え方を子供に押し付けているケースだ。「○○大学に行け」とか、「○○になれ」とか、そういう教育も含めてな。そんなのも行き過ぎれば立派な虐待、心理的虐待だ。
この心理的虐待は、暴力や食事を与えないなどの虐待とは違い、はた目からは分かりにくい。というよりも放射線と同じで目には映らない。だから第三者が介入して救い出すことも難しく、俺がいつも言っている、「専門家や専門機関も手を施すことができないグレーゾーン」がここにもある。
そして目に見えないとは言え、そのダメージは、計り知れないものがある。こうしてでたらめな感覚の、まったくもってバランスの悪い親に育てられた子供が、バランスのとれない生き方をするようになるのは、当然のことだ。
親に暴力を振るい、金を無心しているのは、幼少期に受けた虐待(心理的なものも含め)の仕返しをしているに過ぎない。
俺は、何百という家族のそういう実態を見て、双方が平穏な生活を取り戻し、幸せになるためには、親子の縁を切って、別々の道を歩むしかないと思うようになった。問題を起こしている子供にしたって、いつまでもそんな親に対して恨み辛みを抱きながら生きることほど、虚しいものはない。
30歳、40歳になってまで、「親こそがおかしい」「親に責任をとってほしい」と文句をたれる奴もいるが、親に生き様の改善を望んでも、今さら、変わるわけがない。人の食べ物の好みが一生涯変わらないようにな。
双方が別々の道を歩むことでしか、解決はない。だけどこれは、とても難しいことでもある。なぜなら子供にとって、でたらめな親ほど、アウトローで生きていくための担保になるからだ。それにこういう親に限って、生活環境や物質面では、子供に何不自由ない暮らしを与えてきてもいる。
お互いが普通ではない者同士だからこそ、その結束は固い。罪を犯した者同士の結束が固いように。
親子の縁を切れなど、もってのほかだと俺を非難する人がいるかもしれない。でもそれは、本当に健全な親子関係の元で育てられた人の主張であり、逆にうらやましい意見ですらある。
俺が携わってきた「本気塾」でも、地獄から抜け出し、人生のやり直しができている若い奴らは、自ら親を切り、親を捨てて生きている奴だけだ。それができない人間は、また地獄へ戻っていった。行くところまで行った家族においては、血のつながりを残しておくような、甘い解決はない。
『鬼畜』は、俺の出したその答えを、揺るぎないものとする映画の一つだ。35年も前の映画ではあるが、本質はまったく色あせていない。むしろ家族関係や価値観において、現在と変わらない姿があることに気づかされる。
当時よりはるかに成熟したように映る今の日本だが、いくら物質的に豊かになり、便利な暮らしが送れるようになっても、問題は形を変えずに、そこにあるままなのだ。
映画を見返すたびに、俺はその事実を思い知らされる。