スペシャリストいろいろ

俺が何のスペシャリストか? ということについては、昨日の記事で書いた。だけど、俺みたいな一民間人が、スペシャリストを名乗ることに、違和感を抱く人もいるかもしれない。俺は、どこの専門機関にも属していないし、国家資格も持っていないからね。

でも俺は、命の危険にさらされる「グレーゾーン」の現場ほど、どこに所属しているかというバックボーンや、肩書き、資格の類が、意味をなさない場所はない、と思っている。

俺が扱っている「グレーゾーン」は、イコール「超絶な闇」と置き換えることもできる。警察官、自衛官、消防士…等の扱う危険な仕事とは、全く性質が異なるわけである。「万が一の事態」が考えられる職業で、似ているものをしいて挙げれば、戦場に赴く戦場ジャーナリストとは、本質的には同じかもしれない。どんな組織も肩書きも必要ではない。死ぬときは死ぬのだ。

命を賭さなければできない「グレーゾーン」=「超絶な闇」の仕事。その現場では、専門家云々などと言っていられない。究極を言えば「感性」、ただそれしか頼りになるものはない。国家資格などは存在するはずもない。それに、国家資格を持っていない専門家じゃないからこそ、できることもある。

 

俺は長いこと、精神保健の分野で、命に関わる問題に対して取り組んできたのだが、現場は壮絶である。たとえ家庭内の問題であっても、毎日のように「殺す」「死ぬ」という言葉が飛び交い、激しい暴力の応酬、刃物沙汰が繰り返されている。

俺自身、現場に行くときは毎回、「いつ刺されてもおかしくない」という覚悟をもって挑んでいる。公に言うのは初めてだが、実際に二度、刺されてもいる。

そういう状況だから、作り笑顔を浮かべながらの優しい(ある意味表面的な)言葉や、マニュアル通りの会話で対応できるような相手は、ほとんどいない。俺が「専門家じゃないからこそ、できる」と思うのは、この部分だ。専門家には、ルールがあり、節度も求められる。かける言葉一つにも、制約がある。

俺にはそういう縛りがないからこそ、思い切ったやり方ができる。体現するコミュニケーションと言ってもいいかしれない。その思い切ったやり方こそが、俺が「スペシャリスト」を名乗れるゆえんでもある。

 

もちろん、精神保健分野の専門家(たとえば精神科医や看護師、ケースワーカー、臨床心理士など)にも、スゴイ能力をもった人=スペシャリストは、たくさんいる。その人たちは、俺なんかとは違って、専門の学問をおさめ、日々、実践を積んでいる。俺とは対局の、最上級のところにいるのだ。

そういう人は、危険な「グレーゾーン」の現場になんか来る必要はない。はっきり言ってしまえば、命を賭ける仕事に就かないですむために、専門の学問をおさめている、とも言えるのだから。

現場は、俺みたいな勉学の道からこぼれた人間こそが、身体を張って挑めばいい。それ以外で、俺が、彼ら専門家に貢献できることはないんだし、困っている家族や当事者を救うこともできない。また、そうすることで俺もメシを食えているわけだ。だから俺が何のスペシャリストかと言えば、「専門家につなげる専門家」と言ったほうが分かりやすいかな(笑)

それから、現場で見たもの、実態を伝えていくこと。これは、俺だからこそできることだと思っているので、やっぱり身体を張って、挑んでいこうと思っている。あとはせいぜい死んだあとで天国に逝かせてもらえるように、俺なりに頑張らせてもらうだけだ。