二つの我慢
世の中には、「やってもいい我慢」と、「やってはいけない我慢」というのがあるらしい。やってもいい我慢というのは、人への協力や、人助けのために、自己犠牲をはらうときの我慢。ようは、誰かに飯を食わせるために自分は冷や飯を食う、そういう我慢だ。
やってはいけない我慢というのは、周囲の顔色をうかがって、右習えで歩調を合わせるとか、上司にゴマばかりすって、おかしいことにも異議を唱えない、そういう我慢。
やってもいい我慢は、そのときは辛くても、いつかちゃんと、いい形で自分に返ってくる。やってはいけない我慢というのは、その場はうまいことやり過ごせても、あとからしっぺ返しをくらわされる。
なるほど、これは、家族の問題にも照らし合わせることができる。子供の素質も見極めずに、「いい学校に進学しろ」「大企業に就職しろ」「○○になれ」などと強いたり、「いい子でいなさい」みたいな、体裁ばっかり整えさせる教育は、それこそ、「やってはいけない我慢」を強いていることに他ならない。
そのときは、我慢して親の言いなりになり、見かけだけは順調な道を歩むかもしれない。だけどそんなふうにめちゃくちゃに抑圧されて育てられた子供が、大人になるにつれて、親や家族へ暴力を振るう、働かずに金をせびりつづける…という形で親や家族へ復讐をはじめる。
そこまで来たとき、その人間には、自己犠牲や奉仕の精神という「やってもいい我慢」の心は、皆無だ。現に彼らは、家族の仲裁に入った俺に向かって、はっきりと言う。「親の気持ち、家族の気持ちなんて関係ない」「どうして俺が、家族や他人のために、何かを我慢しなきゃいけないんだ」「働くつもりなんかない。でも自分には、人よりいい思いをする権利がある」。
真面目に働いている一般の人たちは、きっと「何を言っているんだ」と思うだろう。でも俺は、彼らがなぜ、そういう境地に至ったのかを考えてしまう。だから、「いい年こいて、何やってんだ」と思う一方で、「かわいそうになあ…」とも思ってしまう。
つまらない我慢を押し付けてきた親なんかさっさと見切って、自分の力で人生たてなおせ! と手助けもするけど、年齢が上にいくほど、なかなかうまくはいかない。「やってはいけない我慢」ばっかり積み重ねるのは、「心」にとっても良くないってことが、俺にはよーく分かる。
生きている以上は、必ずどっかで、何かを、我慢しなきゃいけない。それなら俺は、「やってもいい我慢」を選びたいね。いつかいい形で自分に返ってくるといいな、っていう夢も持てるし、なにより、自分に嘘をつかずにいられるからね。